物事には優先順位があります。試験日までの時間が無限にあるならどの教科をどのような順序で学んでもいいでしょう。しかし、明確な期限がある場合、合格に寄与する可能性が高い科目から攻略していかなければなりません。なぜなら、いかに綿密に計画をたてたとしてもその通りに実行できることはまずもって無いからです。したがって、試験当日とは、大なり小なり間に合わない部分を抱えて迎えるものだと考えておくべきです。その時、その間に合わなかった部分が試験の中核部分かそれとも周辺部に位置する重要性が低いものかが合否を分ける鍵となります。したがって、優先順位をつけて重要なものから攻略していく必要があるのです。
では、具体的にどの科目を最優先すべきでしょうか。これは圧倒的に英語です。どの大学を志望するにせよ、最優先で取り組むべき教科は英語です。文系理系、各大学の傾斜配点の程度を問いません。以下、その理由を解説します。
目次
英語を最優先すべき3つの理由
①英語はできる人とできない人との差が開きやすい
ここが最も重要な点です。英語は、難易度や配点がどのようなものでも、できる人とできない人との差が極めて素直に出やすい科目です。これは標準偏差が大きいことを意味します。得点が取れる人と取れない人の得点差が大きく開く傾向があるのです。
入試では、同一のテスト問題を解きその出来不出来で合否が決定されます。初歩的で簡単な問題はみんな解けますし、ほとんどの人が解けない難問は解けずとも足を引っ張ることはありません。大切なのは、実力がある人は解けるけれどそうでない人は解けない、そういった繊細な部分においてできる限り点を獲得することです。
このことは、科目同士の関係についてもいえます。しばしばみられる現象として、国数理社では、全体を通じて易問と難問との組み合わせで構成される結果、多くの受験生の点が狭いレンジの中に固まることがよく起こります。つまり、標準偏差が小さく、得点の絶対値としてはあまり差がつかない傾向があるのです。結果として、英語ができる子は得点の絶対値を大きく稼ぎ、苦手な他教科は点数でみればそれほど不利に働かず、順当に合格していきます。
特に注意しなければならないことは、大学の自治が制度的に保障された上で出題される二次試験や個別試験においては、大学側が意図的にこうした出題をする若しくはその状態を放置しているケースが多い点です。この点を理解するためには、試験問題が作られる背景を知らなければなりません。
試験問題を新たに作成する作業は、実はかなり骨の折れる作業です。全受験生に統一的な解釈ができるか、特定の集団が有利にならないかといった公平性に関することだけでなく、時間配分と問題数の比率は適切か、他教科とのバランスはどうかなど、意識しなければならないことが沢山あります。最も面倒なことは、それが学習指導要領に沿った内容であるかを考えなければならない点です。高校までの課程の内容は、真実であることがほぼ確定している事項、もしくは国家がそう見做している事項に限定されています。それに対し大学の研究は、未知の領域に対する開拓的な知のアプローチですから、あらゆる知的資産の活用を試みます。そういった環境と目的とで日々の活動を行っている研究者からすれば、わざわざ国家の一省庁が決めた限定された範囲内から各方面へのバランスと配慮とを欠かさず慎重に問題を作成することは、労力の割に知的生産性があまり感じられない退屈な作業としての側面が強くなります。もちろんそれでも、より良い学生を選抜するために熱意と情熱と工夫をもって作成してくれているわけではありますが、本質的に極めて面倒且つ難しい作業である点を忘れてはなりません。
ところが、これらの制限と目的とを果たした上でも比較的簡単に作問できる教科があります。それが英語です。英語は情報量が多く、しかも単語・文法・読解力・リスニングといった形で要素が多岐にわたり分散されていますから、問題のタイプに影響されず、教科自体の特性として標準偏差が開きやすい性質を持っています。しかも、英語の評論文やエッセイなど、問題の素材が豊富にあり作成が容易です。極端にいえば、手元にある英語論文をそのまま和訳や要約として出すだけでも問題として成立し、できる人とできない人とをかなりの精度で選別することができます。
また、文理を問わず、英語は大学に入ってからも重要な科目です。このことを研究者は学生の指導の中で痛感しています。自分は理系だから大学に入ったら英語はもういいやと思っている人もいるかもしれませんが、実は理系でも、英文の論文を読む機会や大学院に入ってから英語で論文を書く機会は沢山あります。こうした機会に英語が苦手な人が研究室にいると、率直にいって苛立ちを覚えることがありました。大学院生の立場でもそうですから、おそらく指導教官のストレスは中々に大きいものがあると思います。英語の苦手な学生が混ざっていると、いちいち議論の前提となる論文の理解の欠けを補わなければならず、書くに際しても論文における英語の定型的な表現を逐一教えなければならなくなるからです。
これに対し、英語以外の科目は、研究として行う場合と受験として行う場合ではアプローチがかなり異なります。もちろん基礎学力として間違いなく無駄にはならないのですが、大学の研究で重要な能力は一言で言えば独創的な「問い」を立てることで、効率よく問題を解くことは有用なツールとしての能力ではあってもそれ自体を目的とするものではありません。よって、ある一定以上の能力は基礎能力として身につけておいて欲しいけれども、一点刻みの細かい点数の差がそのまま研究能力に直接的な因果関係としてつながるわけではないとする感覚が彼らにはあります。
もちろん、受験の能力は受験の能力として、研究の能力とは別ではあるが同様に素晴らしい能力であることには違わないとする考え方もあるでしょう。しかし、研究者は文字通り研究をして生活している人です。価値観として、いわゆる受験勉強よりも研究の方が価値が高いと考えている人です。何がいいたいかといえば、色々な制約に配慮しつつ熱心に試験問題を作成したところで、英語以外の科目は選抜機能としてのコストパフォーマンスが低い感覚が研究者側にはあるということです。
結果としてどうなるかといえば、保守的に問題をつくるようになります。保守的とはつまり、賞賛を求めるよりも文句が言われにくい問題をつくるようになります。文句が言われないためにはどうすればいいかといえば、平均点を他の教科に合わせることです。平均点を合わせるためには簡単な方法があります。非常に典型的な易しい問題と非常に難易度が高い問題とを組み合わせるのです。つまり、一問の中で各受験生間の学力の差を細かく炙り出すような精密な問題を作るのではなく、この問題は皆解きやすいから平均点が上がる方向へ、この問題は皆解きにくいから平均点が下がる方向へといったように、+と-を全体で調整するように作問すれば、目標とする平均点へと比較的容易に誘導することができます。そしてこうした構成の場合、標準偏差がかなり小さくなる傾向が出てきます。簡単な問題はみな解けるし、難しい問題はみな解けないゆえに、平均点付近に塊りが生じるからです。結果として、受験生の立場からするとその教科では差がつきにくくなります。そしてこの状態はある種の暗黙の了解として放置されています。
ちなみに、このような大変な作業を高校の定期テストではどうしているかというと、教科書には実はそれぞれサンプルとなる問題が資料としてつけられています。したがってそれを組み合わせれば簡単に問題が出題できます。これも逆の視点でいえば、適切な問題を自力で生み出すことがいかに難しいかを物語るものでもあります。大学はそれを毎年行っています。それも外部の厳しい目に晒されながらです。それに対し高校の場合は、サンプル問題が初めからついてますし、学校独自の実力テストにしても大学入試で実際に出題された問題を改変すれば比較的簡単に作問できます。そんなことをしてよいのかと思うかもしれませんが、学校等の教育機関においては著作権上の特権が法的に認められています。これら点を知るだけでも、入試問題のもつ別の側面が見えてくるはずです。
見かけの傾斜配点の割合が大きいから或いは他に得意科目があるからと言って、英語以外の科目を優先する生徒は毎年しばしば出現します。とくにこの傾向は、理系で数学が得意な生徒と文系で国語が得意な生徒によく見られます。しかし、この作戦の成功率はかなり低いものとなります。この作戦が成功するには、試験の本番で、"たまたま"受験生間の得点のバラつきが大きい問題が出題され、しかもその問題に対して自分が高い得点を取る必要があるところ、"たまたま”自分と相性が悪い問題が出題される場合があるからです。つまり二重の偶然性を搔い潜らなければなりません。そして最初の一つはしばしば意図的に行われます。こうした偶然性が全て自分にとって都合の良い方向で起こることを根拠なく期待して受験当日を迎えても、多くの場合は裏切られます。京都大や東工大など一部の例外はありますが、圧倒的大多数の大学では英語が得意かそうでないかで合格率に顕著にして歴然たる差があります。
②英語は成績を上げるのに最も時間がかかる
英語は、他の教科と比較して、記憶・理解すべき物量が多い科目です。また、全く放置してしまうと人間は忘れていってしまいますから、記憶・理解のメンテナンスにも時間がとられます。「英単語を記憶し、文法を体系的に理解し、それらの知識を統合的にアウトプットできる訓練を積み、リスニングを聞き取れる耳を作る」これらのことは一朝一夕にはできません。長いスパンで反復して訓練することで身につく能力です。
学校の単語テストや定期テストであれば、ごく限られた範囲を記憶しそれをそのままアウトプットするだけでそれなりに体裁が整う点がとれるでしょう。しかし、共通テストや各大学の個別入試の問題は、長文問題が主体でありそれも初見の文章を読まねばなりません。そのため、ある特定の要素だけに集中的にヤマを張ることがほとんど無意味です。したがって、個別の大学ごとの出題傾向に沿った対策によって伸びる得点の余地があまりありません。堅実な積み重ねに基づく確かな実力が必要であり、そのために多くの時間が必要となります。
これは逆に言えば、英語を早めに完成させ短時間で総復習できる体制を構築しておかないと、他教科を集中して攻略する時間がとれなくなくなることを意味しています。上で述べたように、英語は膨大な物量を要求します。また、いったん記憶・理解したからといって、その状態が無条件に維持されるわけではなく、定期的な復習による記憶・理解の喚起が必要になります。したがって、早い段階で復習のシステム化ができていないと、他教科を集中的に勉強して得点力をつけたい時でも断続的に中断を余儀なくされることになります。こうなると、どの科目も成績に伸び悩む傾向がでてきます。できるだけ早く、理想的には高2の3月までには一定の復習システムを構築しておきたいところです。
また、得点力を身につけるのに時間がかかる理由として、英語は高校過程と大学入試問題との乖離が大きく、高校の授業を受けていただけでは伸びにくい点が挙げられます。この点、一般論として学校の授業が受験に意味があるのかと問われれば、決して無意味ではないと答えます。もちろん各先生の教授法には技術の差があり必ずしも効率的とは限らない場合も多いため不満を訴える生徒の気持ちもよく分かるのですが、一定の強制的なペースで進められる授業には学力の涵養において有用な側面も確かにあります。高校生を文字通り自由にさせた場合、やはり多くの生徒が勉強など放り投げて堕落していくことは疑いないでしょう。また、必ずしも効率的とは限らない故に別の角度から教科内容を捉えるきっかけになります。特に数学に関しては、教科書が良くできていることもあり、基礎を固める意味では非常に役に立ちます。
しかし、英語に関してはこの限りではありません。これは我が国の戦後の英語教育の歴史と深い関係があり、なぜ1970年代以降に駿台を中心として予備校が大学受験界に台頭してきたのかという問題と密接に絡むので別の機会に詳しく解説します。簡潔にいえば、戦前の旧制高校の出題傾向を組んだ上位大学の入試問題と戦後の新学制における英語教育との間に著しい乖離が生じ、それを受けて旧制高校出身者が中心となって指導に当たった予備校が台頭し、その傾向が今でも連綿と続いているからです。
③英語は本番で最も裏切らない
英語は本番で最も実力通りの点数が出やすい科目です。理科や社会の場合は自分が不得手とする分野が出題され期待通りの点数がでないことがありますし、国語や数学に関しては分野の問題のみならず問題自体の相性があります。これに対し英語の場合、長文問題が主体であるという明確な傾向がある以上、常に特定の分野によらない総合力が試される問題になります。また、模試と本番での出題や採点の傾向の違いが最も少ない科目でもあります。したがって英語ができる受験生は、かなりの程度、見込み通り当たり前に合格していきます。
ただ、それが逆に盲点になる点でもあります。【大学入試】2023年の共通テスト数学の難易度はどうなるかにおいても触れましたが、一般に受験生はドラマチックな合格ストーリーを好む傾向があります。共通テストの点は低いが二次の数学で大逆転した話や英語はからっきしなのに現代文が冴えに冴えて一撃必殺の合格を勝ち取ったといった話です。こうした劇的な話に囚われると、英語で安定して当たり前のように合格する筋書き通りの話を退屈に感じてしまう子がいます。
しかし、繰り返しますが、この手の話を格好よく感じるのは、受験生という特殊な環境下における一時的な錯覚、強くいえば異常な心理状態での精神的揺らぎにすぎません。断言しますが、大人になれば間違いなくどうでも良くなります。「中二病」といっては失礼かもしれませんし、いわゆる中二病も思春期における必要な成長の一過程かもしれませんが、目的のために最大限効率的な方法をとるべき時期につまらないことに拘り進路に影響を与えてはなりません。皆さんの人生の中でドラマチックなことは他のことで沢山起こります。そもそもその逆転劇にせよ、大袈裟に語られているケースも多々あります。ですからここは冷徹にクールに落ち着いて、最も合格可能性が高い合理的な最善の手法を選ぶことを強くお勧めします。
入試までに使える時間は限られており、計画は完全には実行できません。それゆえに優先順位の概念が重要になります。今から受験勉強を取り組もうと思う場合にまず第一に取り組むべき科目、それは英語です。